概要

自己紹介(生い立ちと仕事への想い)

はじめまして。

ここでは、自分の生い立ちから、仕事への想いを改めて、書いていきたいと思います。

長文になりますので、「生い立ち」「仕事への想い」のどちらか、興味のある方だけでも読んでいただけましたら幸いです。

「生い立ち」

1987年、東京のあまりオシャレではないエリアで、サラリーマンである父と専業主婦である母の第二子として私は生まれました。

病院で産声をあげたとき、へその緒が首に巻き付いてしまい「おぎゃー」と泣けず、先生にお尻を叩かれてあわてて泣き出すような、どんくさい生まれ方をしたと母に聞きました。

幼少期はずっと目立ちたがりでした。

小学校時代、お楽しみ会ではコント仕立ての劇を必ずやりたがり、自分で台本を書き、自分を主役。青ひげ、鼻割りばしをつけたコントメイクでおじさんを演じました。

卒業前の6年生では、運動会で応援団長をつとめました。ここでもふざけたくなってしまい、UFOやヒゲダンスを取り入れた三三七拍子など、どうやったらみんなが笑ってくれるかばかりを考えている子供でした。

幼少期夢中になっていたのはサッカーです。

三浦カズを目指して、仲のいい友達と幼稚園のサッカークラブに入りました。サッカーのセンスは一切芽が出ませんでしたが、今でもフットサルを友人としたりしています。

高校に入るとバレー部、大学では違うことをしたかったので登山サークルに入り、一貫して集団スポーツが好きで、30代になって身体が徐々にさびつくのを感じながらも、楽しんでいます。

中学校になると、モテたい衝動にかられた日々でした。

ストリートファッションが流行った時期で、雑誌は「StreetJack」、フリマに行っては、年上のお兄さんに「学割で!」と頼み込んで、SupremeやMasterpeaceなどのストリートブランドの服を買わせてもらっていました。

中高生のときは何をするにも、判断基準は「女の子」。

親には「英語の一つもしゃべられないと、僕の世代は通用しない」とたいそうなことを言って英語科のある高校に進みましたが、留学先でブロンド美女と仲良くなれるかな、という不純な動機でした。(結果は撃沈)

大学時代は、高校時代に憧れていたようなキャンパスライフにはならず、「登山、寿司屋でバイト、飲み会、読書」というむさくるしい日々を過ごしました。

部活の顧問がかなり厳しかったのもあり、バレー嫌いになっていたので、大学では新しいスポーツを始めようと思いましたが、経験者だらけのテニスやフットサルは嫌だなと思い、体力があればなんとかなってしまいそうかなと、登山サークルに入りました。

登山サークルではとても多くのことを学べました。

金曜の夜中に東京を出て、日曜日の下山後に、温泉、打ち上げをして帰宅するまでの行程を組み、バス・タクシー・お店の予約をしたり、一日中一緒に歩くグループがどうしたら楽しく過ごせるかを考えたり、とても勉強になる時間だったと思います。

4年間で、百名山42座を登頂するなど、夢中な日々でした。

アルバイトはずっと、サークルで代々続いているバイト先で、老舗のお寿司屋さんでした。

大将の息子さんがアルバイトと同じ配膳の仕事でしたが、私が入ったばっかりの時は、前回入ったときと、今日入った時で教えて下さる内容が違って怒られたり、理不尽にな想いを感じることが多かったので、とにかくたくさんメモをとって、わざと壁にバシッと貼って対抗したり。

15人前のちらし寿司のパンパンに入ったカゴを片手で持って自転車で水道橋の急坂をあがったり。

今思うととにかく根性の養われるアルバイトでした。

でも、賄いに加えてオマケで握ってくれるお寿司と、あったかい人柄の大将たちが好きだからこそ、大学4年間、休まず続いたのだと思います。

大学では、西洋史学専攻でしたが、シラバスを見ると英米文学の授業などもあり、英米文学にはまっていました。

内容はすっかり抜けてしまいましたが、心酔したチャールズ・ブコウスキーの文庫本をジーパンの尻ポケットに入れてお酒を飲み歩き、高田馬場のロータリーで酔いつぶれていたちょっとかっこつけた時代です。

その当時は、昼ご飯を松屋の牛丼かはなまるうどんのかけうどんで安く済ませ、大好きな自家焙煎のいい匂いが漂うコーヒー屋さんで小説を読むのが一人で過ごす最高の時間。

読む本はビジネス本へと変わっていきましたが、カフェでの読書は今でも大切にしている時間です。

大学3年生の秋からは、就職活動に全力で取り組み、一貫して「営業職」が私の目指したものでした。

就職活動のいわゆる「自己分析」で、最初に自分がどんな大人になっていたいかを考えたときに、「とにかく友達をたくさん呼んだホームパーティーで、奥さんとおもてなしをしたい」という答えにたどりつきました。

「世界を股にかけて働く」とか、「この業界を私が変える」とかいったかっこいい目標はなく、ホームパーティーで楽しく人をもてなせる大人、それが私の理想像でした。

ふざけているようですが、大真面目にそれしか浮かばなかったので、その夢がどうやったらかなうのかを分解して考えました。

「ホームパーティー」をするには、当然「ホーム」があって初めてなりたちます。

ということはマイホームが買えるだけの収入は必要。家を建てるのにいくらかかるかはわかりませんでしたので、私の父がマイホームを建てて子供2人育ててくれているなら、父の会社より年収が高いところだ、と四季報で年収欄を見ながら、エントリーする会社を絞り込みだしました。

もう一つ大事なのは、「友達をたくさん呼ぶ」ことができるのは、当然、「この人に会いたい」「この人に誘われたら行こう」と思われる人である必要があります。

そのころの私は、大学の雑多なカルチャーに染まり、在籍の4年で自分の視野が広がって、以前よりは柔和な性格が変わっていった経験をしました。

その経験から、「4年で変わっていくのだから、長い間一つの会社にいたら、その会社のカルチャーに染まって、変わっていくんだ」と思いました。

なので、圧倒的にたくさんの人と素敵な出会いができる仕事であれば、自分が今よりずっと魅力的になれる思い、営業職を目指しました。

四季報で調べた年収と、営業職というどこの会社にでも大体ある職種志望なので、業界・会社を絞るのはとても難しかったです。

100社以上のお話を聞き、50社以上にエントリーシートを提出し、30社以上の面接を進めていく、怒涛の日々でした。

私が就職活動でこだわったのは、エントリーシートの内容は「基本的には変えない」ということでした。

どの会社にも同じように「自分はこんな人間で、こんなことを叶えたい」と書くと、その私の適正と希望にかなった会社だけが書類審査が通るので、とても楽でした。

なので一貫してどの会社でも、「お客様と継続した関係をつくり、相手の気持ちに寄り添った提案していくような営業マンになりたい」と言い続けました。

住宅業界は、お客様の年齢、職業、家庭環境などがまるっきりバラバラで、その上ライフスタイルを根こそぎヒアリングをした上で間取りや資金計画の提案をするという、私の理想の居場所だと思い、4月入って早々に、他社を全て断り、12年務めることになるハウスメーカーに就職を決めました。

現在では、奥さん、娘と一緒に二世帯住宅で幸せに暮らしています。

社会人を数年経験したころ、一人暮らしを職場の近くではじめ、ホームパーティーをするのがとにかく大好きという時期がありました。

その時、いつものようにホームパーティーで酔っぱらって寝てしまい、昼頃に目を覚ますと、同じく酔いつぶれて眠ってしまい、気持ち悪そうに部屋の隅っこで丸くなっていたのが今の奥さんです。

奥さんはなぜかホームパーティーに呼んでから、一人暮らしの私の部屋にいつき、そこからやんややんやと交際が始まり、1年後には結婚、その1年後に娘が生まれるというものすごいスピード感で人生が進みました。

2017年、自分の働いていたハウスメーカーで元々生まれ育った自分の実家を建替え、1Fに両親、2Fに自分たちが住む二世帯住宅となり、娘が1Fと2Fをキャッキャと楽しそうに往復する生活をしています。

「仕事への想い」

2010年4月、私は新卒で木造大手ハウスメーカーに、住宅営業職として入社しました。

当時は、まだまだ住宅営業というのは、泥臭いイメージもあり、あまり人気のある仕事ではないために、友人から「学歴捨てたの?」「就活失敗した?」という心無い言葉をかけられることもありました。

実際入社してみると、22時にPCがシャットダウンするまでは絶対に皆帰らないし、そこからPCを使わなくてもできるような作業がはじまります。

新人には早く帰りな、と言いながらも、19時くらいから帰社してボルテージを上げだす先輩たちを横目に「お先に失礼します」とは言えず、毎日23時くらいまでは働いていた記憶があります。

入社して5年は全く鳴かず飛ばずの営業成績でした。

毎日辞めたいって思っていたし、ドアノブに手をかけたら冷や汗が止まらなくなって、身体が動かなくなることも何度もありました。

一日中ポスティングした日もあるし、電話を200件以上かけた日もあるし、自分でつくったチラシもって顧客を20件以上訪問した日もありました。

ようやく成績が出だしたのが6年目以降。

会社が求める数字を越えて、黒字営業マンになることができました。

ようやく、水面から顔をあげて、呼吸ができた気分でした。

今までとてもつらかった仕事が、一気に楽しくなり、自分が目指した仕事がここにあったと感じることができました。

そこからは、安定して受注できる年が数年続きましたが、そこから見える道のりに疑問を抱くようになりました。

私が勤めていたハウスメーカーでは、店長はいわゆるプレイングマネージャーで、まだまだお客様と商談する最前線です。

その上の営業をマネジメントする立場になってはじめてカバンを置いた純粋な管理職で、そこに至れるのはごくわずかです。

そうなると、このなんとか黒字社員になれた僕の将来はどうなるのだろう?想像してみると、40代でなんとか店長になって、その先はないんだろうなと思いました。

そこで、自分の視野を広げるために、Twitterでの交流にたくさんの時間を使ってみたり、青年会議所に入って新しい仲間をつくってみたりと、新しい出会いをとにかくたくさん求めていき、転職サイトに登録して、自分にどんな可能性があるのかを必死に探しました。

出した結論は、「住宅営業を楽しくやろう」でした。

転職サイトを見ても、安定した成績を出せるようになった営業マンにとって、快適かつ恵まれた収入をもらえる場所もなく、いかに、住宅営業として楽しく過ごせるかを考えました。

そのためには、「情報ソースの確保」と「定期的な学び直し」が大切だと感じました。

私が何よりもストレスを感じたのは、年齢を重ねても、積みあがるのはトークスキルと住宅知識で、毎月毎年ゼロからのスタートで、後輩たちと一緒にモデルハウスでの来場を横並びで待つということでした。

そこから脱却するには、きちんとした自分の人脈からの情報を得て、安定した受注のベースをつくることを目標にしました。

もう一つ、学び直しがとても大切で、これを行わないために、40代を越えて成績を落としてしまう人がたくさんいるんだと思います。

多くの企業では、「ジョブローテーション」という形で、様々な職種を経験する機会があったりしますが、住宅営業職の多くは、自分で手をあげないかぎり、ずっと住宅営業職になります。

そうすると、新卒から40代になると「住宅営業歴20年」くらいの大ベテランになっているわけですね。

そうなってくると、20代のころは必死に勉強して、30代になるとお客様の層と結婚して子供が生まれた自分が近い感覚で話せて売りやすくなって、40代で少しずつピントがずれてきてしまう。

これを防ぐには、徹底的に自分が常にワクワクして、新しい情報を得続けなければならない。

そのために、常にネットからの情報や、そこから生まれた仲間から学び続ける環境をてに入れようと誓いました。

この2つを誓って、偉くなってマネジメントを目指すのではなく、住宅営業としてのプロフェショナルを目指そうと思いました。

そんな誓いを立てると面白いもので、豊富な顧客を抱えていらっしゃる法人と、学ばせてもらえる環境をつくってくれるネットで知り合った仲間がすぐにできました。

法人からのたくさんの紹介に対して、新しく仲間から学んだ営業スキルで、私の成績は飛躍的に伸び、年間7,8棟だった社員が、11棟、13棟、12棟と成績を伸ばし、全国表彰も経験することができました。

圧倒的に忙しくなりましたが、その分、お客様に求められる喜びを感じる日々でした。

売れだすと、自分に万能感のような気持ちが生まれ、お客様をきっと喜ばせることができるという自信を常に持って仕事をすることができました。

とても幸せな日々だったと思います。

その一方で、「このままでいいのかな」という新しい気持ちが生まれました。

住宅営業としてプロフェショナルを目指そうと思っていましたが、住宅営業としての枠を飛び出して、もっとこの業界に貢献できないかと考えだしました。

「売れてなかった若手時代に、そばに寄り添ってあげられる存在になりたい。」

「視野が広くなってきた中堅時代に、将来のキャリアを一緒に考える存在になりたい。」

「もう一度学び直したいミドル世代に、学び直しのチャンスを提供できる存在になりたい。」

自分が経験してきたからこそ、見えた住宅業界の問題を、外から幅広く解決するお手伝いをしたい。

そんな想いで、私は独立を決意しました。

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